今日は、
先日、聖子さん&椿さんの
Wセッションを受けた際のお話です。
セッション中に
- 私はまだ自分責めをしていて、
拗れに拗れまくっている - 望みを抱くことも自分に許していない
ということを指摘されました。
…正直に言うと、
頭では分かったけど、
腑に落ちてない状態…
なぜなら、
自分は自分の好きにしていると
思っていたから。
好きなモノを食べて、
好きなところに行って、
会いたい人に会って、
満たされているじゃないかと。
Wセッションを受けた理由は、
「会社を辞めたい」という意志が
本音なのかどうかを確かめに行ったはずで、
そこから逸れてるし…
でも、お二人が見たことも
また事実なのだから、
「そうなのかもなー
自分で気づいてないだけかもなー」
「椿さんの言葉は
後から効いてくるって
言ってたしなー」
と、もんやりしたまま
セッションを終えました。
それが4日前のこと。
そして今日、いつもの日課で
ほぼ日新聞を見にいって、
ひとつの言葉に体が反応しました。
「抱きしめられたい」
それは、
本のタイトルであったけれど、
とてもとても純粋な
望みの言葉だと感じました。
そして、自分が、
「抱きしめられたい」
「愛されたい」
そう思うことを
自分に許していなかったことに
気がつきました。
“望んでも得られないことなんて、
望むと苦しいだけ。
だったら、
最初から望まなければいい”
そう思って、ないことにして、
上手に上手に、他の楽しいことで
自分をごまかしていた。
よく、心屋や引き寄せの世界では、
欲しいものが手に入らないのは、
『自分に受け取る許可をしていないからだ』
と言うけれど、
私の場合、受け取り許可をする以前に
望むことすら許可していなかったのか
「そういう解釈でいいのかな?」
そうカミサマに問いかけて外を見る。
緑の車が見える → イエスのサインだ。
「私の近くに、私を想っている人はいる?」
また別の緑の車が通って行き、
イエスのサインだと解釈した。
「抱きしめられたい」
「愛されたい」
いつかそれを満たしてくれる
誰かに出会えるまで、
自分で自分のことを
精一杯抱きしめて、
愛して、
大事にしていこうと思います(*v.v)。
chika8でした♪